源平が合戦を繰り広げた治承・寿永の乱では、次々に東国の武士団が源頼朝の味方に馳せ参じているが、上野国高山御厨の在地領主・小林氏もその一つだったようだ。本家の高山氏とともに「吾妻鏡」に事跡が登場する。 (記事表示)

 吾妻鏡の元暦元年(1184年)5月1日の条には、信濃国で挙兵した木曽義仲の残党の鎮圧に動員された軍の中に、小林の名前が見える。

 小林氏の出自について、高山御厨を市域に含める群馬県藤岡市の「藤岡市史」(通史編、二〇〇〇年)では、「武蔵の秩父氏から分かれた高山氏とその分家小林氏」としている。

 高山氏は「桓武平氏であり、武蔵国秩父地方を領地としていた秩父氏の分家の一つで、秩父重綱の三男重遠が武蔵国高山邑(飯能市高山)に住み、高山の姓を名乗った。その後、上野国緑野郡高山御厨の守備のため、現在の藤岡市へ移住してきた」としている。

 一方、小林氏については「高山重遠の三男・重幸は、緑野郡小林邑に居を構えて小林氏を称した」という。

 小林氏だけを見ても、義仲残党の鎮圧の記事だけでなく、鎌倉幕府成立前後には吾妻鏡に度々、登場することが、藤岡市史では指摘されている。

 寿永4年(1185年)正月には、頼朝が鶴岡八幡宮に神馬2疋(ひき)を奉納した際、1疋を小林次郎重弘が引いている。文治5年(1189年)、奥州討伐に向かった幕府軍の中に、高山・小林両氏の名が見える。ほかにも、建久元年(1190年)の頼朝上洛に小林次郎が、建久6年(1195年)の頼朝の奈良東大寺供養に小林次郎、同三郎がそれぞれ随兵している。

 以後、高山氏とともに、鎌倉時代を通じて高山御厨の地で地頭として生き残っていく。権力争いに巻き込まれたり、没落したりすることなく、本貫地を守り通せたのは、それほどは大きくない、小武士団だったことが幸いしたようだ。

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神流川北岸の高山御厨が小林党のふるさと。現在の群馬県藤岡市あたりだ。その北西の高崎市には、山名氏がいた山名郷がある。
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