細川忠興が関が原の戦いでの功績によって豊前の国を拝領したのに伴い、弟の幸隆も豊前に入国し、宇佐郡安心院にあった龍王城主となった。幸隆に仕えていた小林勘右衛門も従ったはずである。上野国を出自とする小林党が九州の地に縁を持ったのは、これが初めてだと考えられる。(記事表示)
安心院(あじむ)(大分県宇佐市安心院町)は、さほど広くない盆地である。龍王城は盆地の北寄りに位置する小山の上に築かれ、もとは、安心院氏を名乗る豪族が盆地一帯を治めていた。戦国時代に入ると、豊前が毛利氏と大友氏の争奪の的となり、龍王城も大友氏によって攻め落とされている。
幸隆の城主時代は短く、慶長8年(1603年)から、37歳で病没する慶長12年(1607年)までの4年間でしかない。
幸隆はもともと、僧になるはずだった。幼くして京都・愛宕山の福寿院に入れられた幸隆だが、出家をやめて武将に戻るらざるをえなくなったのは、丹後国を領するようになるなど、細川家の身代の急速に大きくなったからとみられる。小林勘右衛門は、幸隆が福寿院時代に児小姓として仕え始めている。
武将としての活躍は、兄・忠興の陰に隠れて、田辺籠城戦の指揮ぐらいしか歴史に残っていない幸隆だが、文人として名声は高く、能の関係で功労が顕著だ。
心ならずも武将として後半生を送ったが、本来、風雅の道に暮らす人ではなかったか、という気がする。
(※写真=龍王城があった龍王山)
小林勘右衛門は、細川家が豊前を領していた時代に、当時、隠居していた忠興によって、暇を出されている。知行を召し上げになったわけだが、周囲のとりなしにより、藩主・忠利が寛大な措置を講じ、帰参を許されている。(記事表示)
戦国時代に山名家の滅亡とともに没落したが、忠興の弟・幸隆(妙庵)に仕えることによってようやく細川家に召し抱えられたが、再び、浪々の身となるところであった。
「近世大名家の権力と領主経済」(吉岡豊雄著)の「初期大名家の隠居体制と藩主権力」の中でに詳しく触れられている。当時、隠居していた忠興に付けられた家臣は、忠興の居城地にちなみ、「中津衆」と呼び、これに対し、藩主・忠利の下に構成された家臣を「小倉衆」と言っていた。「中津衆」は藩主・忠利との制度上の主従関係のほかに、隠居・忠興との個別人格的な主従関係を持つ、「主従関係の二重構造」として検討されている。
以下、「初期大名家の隠居体制と藩主権力」(115頁)より、抜粋して紹介する。
中津衆は忠興との個人的関係を根拠に編成されたがゆえに、現実的には隠居忠興との間に濃厚な人格的な関係をとり結び、事実上忠興家臣として存在している。この点を端的に示すのが忠興による中津衆の改易である。忠興は彼自身の気性もあってかしばしば家臣に暇を遣わしている。たとえば小林勘右衛門(知行一九三石)は忠興の「御前損」じ、周囲のとりなしで何とか赦免される。中津重臣の村上河内守・長舟十右衛門は幸い「越中様(細川忠利)前々●被成御存知者」ということで忠利に対し小倉での召仕いを願い出る。忠利は小林に対し改めて忠興に「わひ事」をするように命じ、一〇人扶持を給して小倉で「奉公」させている。
同書で著者の吉村氏は、勘右衛門のこの事例は、中津衆の置かれている状況をよく表していると指摘。「中津衆は、制度上は、藩主・忠利の家臣であるが、忠興から暇を出されると、忠利のもとに復帰するのではなく、家臣としての身分そのものを失ってしまう」のだという。
こうした事例は、勘右衛門にとどまらず散見される。細川家の「先祖附」には六家見えるが、「後に忠利に許され、先祖附に収録されている。知行召上げとなったまま、牢人化した中津衆も少なくなかったはずである」ということだ。
二人の中津衆重臣が「忠利様も、前々からご存知の勘右衛門のことですから、なんとか」と懸命にとりなしてくれ、頼まれた忠利も「勘右衛門、お前ももう一度、伏して、三斎様(忠興)に、おわびをするのだ」と諭した上で、その庇護の下にいれてくれた。幼少のころ、父・丹波とともに戦国の世を仕える主君を探して流浪した記憶を持つ勘右衛門はどういう思いであっただろうか。
寛永2~3年(1625~26年)のころのこと。徳川家光の治世の初期で、世の中は安定期に入ったが、外様大名の改易は続いていた。細川家の扶持を離れることなく、家を存続できたことは、奇跡と言っていいかもしれない。
肥後細川家家臣としての小林家の初代は、「先祖附」によると、小林勘右衛門という。関ヶ原の戦い(1600年)の際、西軍の軍勢に囲まれた細川幽斎 の丹後・田辺城に籠城した一人と伝えている。幽斎が万が一、討ち死にすれば、幽斎が伝える古今伝授の断絶を恐れた後陽成帝による勅使で、和議・開城となっ た逸話でも有名な籠城だ。(記事表示)
「先祖附」は、家臣に家系図を提出させたもの。熊本県立図書館蔵の先祖附には次の記録が残っている。
初代、小林勘右衛門儀、丹波国の者にて御座候。三斎様、丹後国御在城の節、妙庵様、愛宕に御登山遊ばされ候みぎり、御児小姓として召し出され、数年相勤め候ところ、関ヶ原御陣に付き、妙庵様、丹後国田辺の御城へお越し成られ候とき、勘右衛門儀御供仕り、田辺御籠城の節も、御用を仰せ付けられ候旨、承伝申し候。さそうらいて、豊前国にて、三斎様より御知行百五十石を拝領し、御奉公相勤め候。寛永七年病死仕り候。
文中、三斎様は細川忠興、妙庵様は忠興の弟の幸隆。以下に意訳する。
初代、小林勘右衛門は、丹波の国出身。細川忠興公が丹後の国に在城されていた時のこと。弟の幸隆公は、愛宕(京都の愛宕山)におられ、小林勘右衛門は、その時に小姓として召し出された。数年、勤めたところで、関ヶ原の合戦に至った。幸隆公は丹後国の田辺城に籠もることになったが、勘右衛門もお供し、田辺籠城戦でも御用を仰せ付けられたと伝えられている。その後、国替えになった豊前国において、忠興公から、知行として一五〇石を拝領し、ご奉公した。寛永七年(一六三〇年)に病死した。
さらに、藩の公式の記録である「綿考輯録」巻五に記載されている勘右衛門の出自は、もう少し詳しい。