小林党の名字の地は、上野国緑野郡の高山御厨(群馬県藤岡市)にある。吉川弘文館の講座「日本荘園史5」(東北・関東・東海地方の荘園)には高山御厨の記述が登場する。 (記事表示)
延慶本「平家物語」から引用する。
同書によると、高山御厨は天承元年(1131年)に伊勢皇大神宮に寄進され、永治2年(1142年)に宣旨が下され、国役などを免除された代わりに、皇大神宮に貢納物を納める「御厨」となったという。
「伊勢皇大神宮神領注文」という史料には以下のように出ている。
高山御厨 二宮没官地 件御厨、去天承元年建立、永治二年被下奉免 宣旨也、供祭物内宮方上分白布十端、雑用料十反、外宮方同前 (建久三年八月)
この御厨には二百八十町の田数を有し(「神鳳鈔」)、建久6年(1195年)の「伊勢大神宮神主解写」によると、「故左馬頭家御起請寄文」が御厨成立の根拠となっている(「神宮雑書」)、としている。
「故左馬頭」は源義朝のことを指しており、「故左馬頭家」は源家のことであり、時代的には義朝の父・為義の寄進によって成立した御厨であるという。御厨の司と想定されるのが、武蔵秩父氏系の高山・小林両氏である。
以上は、講座「荘園史5」にある上野国の高山御厨の項から、抜粋して紹介した。
源義朝の長男、「悪源太義平」が、久寿2年(1155年)に、義朝の弟、源義賢と、義賢を養子に迎えた河越重隆を攻め滅ぼした戦いに「大蔵合戦」がある。保元・平治の乱に先立って東国で起きた合戦 だが、源氏や良文流平氏の秩父氏がそれぞれ、一族で敵味方に分かれて戦った争乱で、事件の背景についての解釈も様々である。 (記事表示)
延慶本「平家物語」から引用する。
彼義賢、去仁平三年夏ごろより、上野国多胡郡に居住したりけるが、秩父次郎大夫重隆が養君になりて、武蔵国比企郡へ通いけ るほどに、当国に限らず、隣国までも随ひけり。かくて年月経る程に久寿二年八月十六日、故左馬頭義朝が一男悪源太義平が為に、大蔵の館にて義賢、重隆共に 討たれけり。
源義賢と義朝の父親は、為義。鎌倉に本拠を構え、一時期に比べて衰えてしまった東国での源氏の勢力拡大に努めてきた義朝は、上京し、中央での地歩を少しずつ固め始めていた時期でもある。義賢が多胡郡に下向したのが仁平3年(1153年)であるのに対し、義朝が上京7年目にして、下野守に任命されたのもこの年である。
本拠地の鎌倉から、下総国相馬御厨や相模国大庭御厨に支配の手を伸ばすなど、義朝は、南関東での勢力伸張に務めた。さらに下野守になり、いよいよ北関東に拡大しようしていた時期に、義賢が多胡郡を本拠に、北武蔵で有力な勢力を持つ秩父氏の河越重隆と手を結んだのである。義朝を著しく刺激したことは想像に難くない。
高山党はいつから緑野郡に住みついたのか? (2008.07.20)
高山党が本拠とした荘園「高山御厨(みくりや)」が上野国緑野郡の地に成立したのは、天承元年(1131年)と言われる。御厨は、伊勢神宮に寄進された荘園のこと。上野国の荘園では、新田氏が開いた新田荘は保元2年(1157年)に成立。高山御厨は比較的早くできていることがわかる。(記事表示)
上野国の荘園の成立時期を考える際に重要になるのは、天仁元年(1108年)7月21日に起きた浅間山大噴火である。これにより上野国では火山灰の堆積によって、農業は壊滅的な打撃を受けた。右大臣藤原宗忠の日記「中右記」に残された記述は次の通りだ。
猛火山嶺を焼き、その煙天に属し、砂礫国に満つ。灰燼庭に積もる。国内田畠これにより、すでにもって滅亡す。一国の災い、いまだかつて此の如き事あらず。
噴火により荒廃した地を開発して荘園化していったのが、高山党をはじめ、清和源氏の新田氏や藤原秀郷流の武士団であった。(参考:「上野武士団の中世史」はじめに)