【明治】異端としての神風連

 熊本敬神党(=神風連)の遺族についても、歴史は若干の記録をとどけてめている。明治27年9月21日の読売新聞には、「召集令待てずに、自害はかる。神風連の遺児で某師団曹長、志果たし渡韓師団に」とのタイトルで、当時としては長文の記事が掲載された。

 以下、要点を抜粋して紹介する。

 東京府下、某師団の「何某曹長」という匿名の記事。曹長の父親は、鎮台司令官の種田少将を襲撃した1人でした。記事の年の8月に勃発した日清戦争に出征したい気がはやるものの、師団への進発令が下らず、ついに思い余って自害を図り、周りのものに止められた、という内容だ。

 「(乱の当時)曹長其頃は年未少かりしも、我父の無名の兵を起し、皇国の敵となり、あたら名将を手にかけて無残の最期を遂げしめたことを思ひ、如何にもして亡父の汚名を清めて地下の魂を慰めんと深く感ずることありて、遂に兵籍に身を置き、一旦、国家の変あらば、真先に討死し…」と思い詰めていたことが背景にあるという。

 記事をしめくくるのは、次の一句。「其志を憐み、或る将校の周旋にて、先頃、進発せし某師団に編入して、渡韓せしむることとなりければ、歓喜措く所を知らず。曹長、万歳の声に送られて行く出陣の姿ぞ勇ましき」とあった。曹長がその後、どうなったかは、出てこない。

 渡辺京二氏は、著書「神風連とその時代」に、「蜂起のあと」という章を書いている。その中で、明治29年に出された木村弦雄著の「血史」は、「ほとんど世間の注目を集めなかった。時流はまだ、神風連の復権を求めていなかった」とある。その後、「(石原醜男氏の)『(神風連)血涙史』が現れ、荒木精之氏によって『遺文集』が編まれ、櫻山同志会が思想団体として機関紙『櫻山』をもつに至って、神風連復権のサイクルは完成した。神風連はまさに天皇制国家の思想的正統として位置づけられたのである」と指摘しておられる。

 これに続くセンテンスで渡辺氏は「だがこのとき、神風連の異端としての本質はじつは死んだ」と指摘している。深くうなづける説だと思われる。周辺にいくにしたがって、時代を経るにしたがって、神風連の行動を理解するチャンネルを、人は失うだ。神風連の内部でもそうだ。櫻園直系の人々と、たとえば、小林恒太郎や古田十郎のような春日寺塾派、あるいは、高麗門連をはじめとする郷党の人々との間には、やはりそれぞれの思いのグラデーションは微妙にあったようだ。。残された家族についても、それは当てはまる。

 異端、もしくは異質なものに対して、理解はできないけれども、ありのままにその存在を認めるといったことを、明治以降の人々は下手になったのかもしれない。

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