関ヶ原の戦いの際に、丹後・田辺城では、西軍の大軍に囲まれた細川幽斎ら留守部隊が奮戦した。この時、活躍したのが幽斎の三男、幸隆(妙庵)である。
細川幸隆は元亀2年(1571年)、幽斎の第四子として誕生。長男忠興、二男興元。3人の母は、若狭熊川城主沼田上野介光兼の娘・麝香(じゃこう)である。
元亀元年(1570年)には、織田信長が浅井・朝倉連合軍を破り、伊勢長島の一向一揆を攻略、比叡山焼き討ちなどと続く。
細川家にとっては、藤孝(幽斎)は、足利義昭の命で三好・松永などと戦っていたころだ。
天正7年(1579年)には、明智光秀の下で丹波に攻め入り、波多野氏を亡びしている。この翌年の天正8年(1580年)には、丹後に入国している。
幸隆についての研究は、中村格氏が「宝生」に3回にわたってまとめられた「妙庵細川幸隆について――安土・桃山期の能伝承者」(初出「宝生」第22巻第7号)が詳しい。以下は、概ね同氏の研究の紹介である。
幸隆が事跡がわかるのは、天正10年(1582年)。3月に、京都の愛宕山下坊「福寿院」に入ったことが、大分県宇佐市安心院町の菩提寺に残る「妙庵寺由緒」に記されている。12歳の時である。
天正10年は天下が大きく動いた年で、愛宕山も深くかかわっている。幸隆が出家した3か月後の6月には、明智光秀が本能寺に信長を襲った。これに先立ち、愛宕山で催した連歌会「愛宕百韻」は有名だ。
幸隆は出家の身で終わらず、還俗して武将となり、細川家に戻る。その時期を、「綿孝輯録」と「細川家記」では、天正11年(1583年)、「妙庵寺由緒」では天正19年(1591年)としている。
天正11年では、幸隆11歳で、出家期間はわずかに1年。天正19年だと21歳になっている。福寿院の住職を務めた記録が残っているので、「妙庵寺由緒」の記事が妥当だと思われる。
幸隆30歳の慶長5年(1600年)に、田辺城籠城戦は起きる。上杉景勝を攻めるために徳川家康に従い、当主忠興らが家中の諸将を連れて東上した留守を守っていたのは、幽斎と幸隆をはじめとする約500人だったという。
幸隆が愛宕山にいたころに仕えた小林勘右衛門も籠城に加わり、幸隆・幽斎の近くにいたことが「綿考輯録」などに書かれている。
細川家は関ヶ原での戦功などにより、豊前国を領したが、幸隆は、慶長8年(1603年)、竜王城(大分県安心院)の城主となり、4年後の慶長12年11月1日に、37歳で亡くなる。
幸隆自体は、どちらかというと武将よりも、父・幽斎より、文化人の血を受け継いだようだ。細川護貞著「細川幽斎」では、以下のように賞賛している。
その生涯に能を極め、能に関する幾多の書きつけを残している。
能楽史研究の上では重要な人物である。