明徳2年(1391年)、守護大名の抑圧を図る足利義満の“挑発”に乗せられた山名一族が挙兵し、南と西から京に兵を進める。明徳の乱である。山名家の重臣だった小林上野守義繁は緒戦で討ち死に。勇猛をもって鳴る山名勢がいかにして、わずか1日で敗れ去るにいたったか――。軍記物語「明徳記」の記述に見る。
山名方の総大将は、山名陸奥前司氏清だが、挙兵に最も積極的だったのは、氏清の甥で婿の山名播磨守満幸である。これに、兄の修理大夫義理、中務大輔氏家、弟の上総介高義ら一族が加わる。
計画では、氏清は和泉から、京の南の八幡(石清水八幡)に軍を集め、義理が率いる紀伊国勢と合流。ともに北上して京に入り、大宮方面を目指す手はずになっていた。
丹後や出雲など西国勢は、満幸が率いて京都の西方に位置する峯の堂に陣を敷いた後、山を下り、西から、京の中心部の内野を目指し、氏清・義理の軍と合流し、幕府方と勝敗を決するという戦略だったようだ。
ほかに、小林上野守(上野介)義繁と氏清の弟・山名上総介高義の軍七百騎と、大葦次郎佐衛門尉宗信と土屋党の五百騎、氏家と入沢河内守の因幡勢五百騎が別働隊として動いていた。
小林・上総介軍は丹波口から、氏家勢は淀を出て、鳥羽の秋の山、河原から二条大路を北上して大宮内野に攻め込むはずだった。
一方、大葦・土屋党は、上梅津で桂川を渡河、仁和寺付近を通って内野の北側、幕府軍の背後に出ることになっていた。