慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝を討つために、諸国の軍勢を催して会津に向かった。その間隙を衝くかたちで、石田三成が反徳川勢力を結集して挙兵。天下分け目の関が原の戦いに向けて戦機が熟していった。
当時、細川家は丹後の国を領有。忠興は家康の下で会津征伐に従軍しており、家中の兵の大半を引き連れていた。丹後の田辺城には、父の幽斎がわずかな兵とともに留守を守っていたが、ここに西軍約1万5000余の大軍が押し寄せた。
対する細川方は約500とも言われ、一時、僧籍にあったが還俗した忠興の弟、妙庵(幸隆)も駆けつけており、妙庵に仕えていた小林勘右衛門もともに、田辺城に籠城することになった。
籠城戦は50日以上続き、最後は、「古今伝授」を伝承する幽斎が戦死し、和歌の道が道が失われることを惜しんだ後陽成天皇が仲裁に乗り出し、勅使を差し向けた結果、幽斎は西軍に開城している。
関が原の決戦に駆けつけるはずの1万5000の軍を田辺城に拘束したことは、徳川政権発足に大きく貢献した。一方、田辺での籠城戦に先立ち、大坂城下では忠興夫人・ガラシャが石田三成方の人質にされることを拒み、命を落としている。